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新宮秀夫は幸福とは満足、安心、豊かさなど人の願うことの中そのものにあるのではなく、それを得ようとしたり持続させようとする緊張感の中に幸福があるとする。そして幸福についての考え方を、複雑性に応じて四つの段階に分類する。数字が上の階は下より高級ということではなく、下の階の考え方を前提とすることにより成り立っているということである。
エピクテトス『語録』 己の力の及ぶものと及ばないものを識別し、自己抑制をもって生きることを説く。
スピノザ『エチカ』 物事を永遠の相のもとで見ることが幸福(神に対する知的愛)への道であるとする。
ショーペンハウエル『幸福について』 目先の環境に振り回されるのをやめ、すべては空しいと諦観することで精神的落ち着きを得るべきである。世俗的な幸福の源泉を人のあり方・人の有するもの・人の印象の与え方に大別した上、肝心なのは「人のあり方」であるとする。『意志と表象としての世界第四部』 自他の区別を去った意志の否定を説く。
アラン『幸福論』 健全な身体によって心の平静を得ることを強調。すべての不運やつまらぬ物事に対して、 上機嫌にふるまうこと。また社会的礼節の重要性を説く。
ラッセル『幸福論』 己の関心を外部に向け、活動的に生きることを勧める。
カール・ヒルティ『幸福論』 神のそば近くあることが永続的な幸福を約束するとする宗教的幸福論。
福田恆存『私の幸福論』 不公正な世の現実を見据え、弱点を弱点と認識した上でとらわれなく生きること。望むものを手に入れるために戦い、敗北しても悔いないこと。
「棺を蓋いて事定まる」(『晋書』・劉毅伝)という格言は、ある現象が、その人物にとって果たして本当に幸福か否かは、その後の長い期間を経過しなければ、単純には判別出来ない複雑性がある、ということを述べている。なお落語には「人の値打ちと煙草の味は、煙になって判るもの」(意:煙草は火を付けて吸うまで良し悪しが判らないが、人は葬式が終わって火葬されるまでは、どれだけの価値があったかが正確には判じ難い。)という下りもあるという。
例えば、ある人が子供の頃に憧れた職業に進むため、適性を無視してその方向に邁進、結果として途中で挫折した場合には、当人にとって大変な損失であり不幸である。よしんばその途中過程で、まだやり直しが利く段階での成功は、その瞬間には「幸福な出来事」といえるのかもしれないが、結果論から言えば「いよいよやり直しが利かなくなる状態に陥っただけ」ともいえる。
縒り合せた綱故事を引用すれば、古代中国の『淮南子』人間訓に「人生万事塞翁が馬」(元の僧、熙晦機の漢詩「人間萬事塞翁馬 推枕軒中聽雨眠……」の冒頭。)がある。「塞翁が馬」とも称されるこの話には、人の幸不幸は縒って作った縄の目のように、交互に訪れる(「禍福は糾える縄の如し」・幸も不幸も交互に訪れるため片方ばかりは続かない)などの類似する故事・説話・慣用句なども数多い。
人生万事塞翁が馬:ある塞(城塞)のほとりに、老人とその息子とが暮らしていた。ある日、彼ら親子の馬が突然逃げ出してしまったため、周囲の人々は馬を失った親子を気の毒がったが、当の老人は「不幸かどうかは果たして分からんよ」と、意にも介さない。間も無く、逃げ出した馬は立派な視力回復
を連れて戻ってきた。不幸が転じて幸運となったために周囲の人々は親子の幸福を感心したが、老人はやはり意に介さない。間も無く、息子がこの馬から落ち脚が不自由となってしまったため周囲は同情したが、それでも老人は意に介さない。その後、戦争が始まって村の若者は皆兵に徴収され、ほとんどが戦死してしまったが、息子は脚が不自由であるため村に残った。こうして、老人と息子は共に生き長らえ暮らしたという話である。
1980年代から幸福感に関する心理学的・精神医学的な研究が盛んになってきた。[3]。
世界各地の110万人のデータを検討したマイヤースらの1996年の研究によると、2割の人が「とても幸福である」と答え、約7割の人が「かなり幸福」あるいは「それ以上」と答えていた。
ある程度以上裕福な先進諸国においては、個人の経済的裕福さと幸福感との間には関連性が見られなくなる[4]。 統計学的に見て、幸福感に大きな影響を与えているのは、婚姻状況[5](未婚/既婚/離婚の違い)および信仰心であった(注. ここでいう「信仰心」とは、主としてキリスト教の信仰のことである)。世界14ヶ国、16万人余りを対象とした国際研究では、幸福であると答えた人の率は、信仰心があつく、礼拝や儀式にもよく参加する人で高かった[6]。
様々な統計的データによって明らかになったことは、幸福感の基線を決めるのは、環境の客観的な条件ではなく、個々人の内的特徴(「信仰心」や「ものの考え方」など)である、ということである[7]。
また、幸福感を持っている人に共通する内的な特徴は4つある、ともいわれる。自分自身が好きであること、主体的に生きているという感覚を持てていること、楽観的であること、外向的であること[8]。
また、人は価値のある活動に積極的に参加し、自身のゴールをめざして前進するときに、より多くの幸福を感じることができる[9]。
なお、法律でも幸福は扱われている。基本的人権には幸福追求権が含まれており、法律上誰でも等しく幸福になる権利を有していると考えられている。この幸福追求権は、他人の幸福追求権を不当侵害しない限りに於いて、制約される事は無い。他の表現をするならば、いくら己の幸福を追求していようが、他者の幸福を侵害しないことには注意を払う必要がある、ということである。
ご自身の健康問題に関しては、専門の医療機関に相談してください。レーシック
もお読みください。
ある人物が幸福であるか否かは、上述の様に、客観的なものではなく、あくまでも主観的な感情であるため、周囲から判断することは困難である。また精神病の上では幸福感が得られなくなる症状もあり、発症者には適切な治療が必要である。
幸福感を得られなくなる病気としてうつ病がある。この病気は絶望感で悶絶するもので、患者自身にとってうつ病は他に比較できない苦痛を発生させ、何ごとに対しても思考することが困難な状態に陥り、極度の絶望感に苛まされることになる。この状態では無意味に苦しいだけなので、現代医学の視点からすれば一刻も早く心療内科に駆け込み、適切な治療を受けるべきである。
うつ病は現代医学において治療法が確立されていることもあり、投薬などの治療によって回復後に本人自身が思い返して「一体何故あんなに思い詰めていたのだろうか」と呆れる程にドラスティックに回復する病気でもある。また同症の発症は「心の風邪」という形容詞が示すように、「誰でも発症する恐れがあるが、放置すれば命にかかわることもある(万病の元)」でもあるため、早めの治療こそが有効といえよう。
ところが、本人が病気と認めず治療もせずに絶望感のなかで頑張り過ぎた挙句自殺してしまうケースも、日本を含む先進諸国を中心に社会問題となっている。
許婚(いいなずけ)とは、現在の概念では幼少時に本人たちの意志にかかわらず双方の親または親代わりの者が美容整形
で結婚の約束をすること。また、その約束を結んだ者同士をさす言葉。許嫁とも書かれる。
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と呼ぶことがある。許婚という語には、結婚を(家など)当人以外のものが決定するニュアンスがある。そのせいで、個人の意思を尊重する人たちから、偏見を持たれて、嫌われることもある。しかしながらこの語自体には元来、女性蔑視の意図はない。(婚約より引用)
許婚・許嫁は共に当て字で、もともとは「言い名付く(いひなづく)」という語の連用形が名詞化した語とされる。他にも、「結納付け」や「忌み名づけ」などが転じたと言う説があるが、有力とされていない。
古代、男性が女性の名を知ることがその女性を占有することと同義であった。この時代には、結婚を前提としての交流手段であったと考えられる。この風習に関する記述は、『万葉集』などで散見される。
室町時代ころから武家の間で男性支配の婚約の形として、当事者の意志に関係なく取り交わされる形になった。これは、戦乱の世の中で、政略として結婚が行われたためと考えられる。この時代の許嫁は、当事者の意志を無視したものであったので悲運に泣いた女性の物語も多く残されている。
現在では、古い形での婚約がなくなり、婚約した当人同士が相手をさす言葉になった。
現在の日本国憲法第24条や日本法(民法)によって、当事者に婚姻の合意があることが規定されており、許嫁は建前上は存在しない。ただし、未成年者においては親権者の合意も必要となる。